身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂
留魂録 (りゅうこんろく)
前々から、「一度しっかり読みたい」と思っていた「留魂録」を読んだ。
幕末の志士、吉田松陰が松下村塾の門下生にあてた、約5000文字の遺書である。処刑の前日と前々日の2日間で書かれた。
表題の和歌は、その冒頭に書かれている、吉田松陰の辞世の句である。
自分の身は江戸で処刑されて朽ち果てるが、自分の思想は是非残って欲しい
- 作者: 古川薫
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2002/09/10
- メディア: 文庫
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全16章からなるが、その大部分は、「ことここに至った経緯の説明」と、「最近知った人物で、是非同士に紹介したい。是非連絡を取って欲しいという依頼」などの、門下生に対する最終講義に近いものだ。
吉田松陰の 死生観
唯一、松陰の死生観が述べられているのが、第8章。
対訳風にすると、
(吾れ行年三十。一事成ること無くして死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば惜しむべきに似たり。然れども義卿の身をもって云へば、是れまた秀実の時なり。)
自分は、30歳で命を断つことになる。まだ何事も成し遂げていないから、惜しむべき、に見えるかもしれない。しかし、自分としては、花咲き、実も結んでいる、と思う。
(何となれば、人寿に定まりなし、 禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。)
なぜならば、ひとの寿命には定めがない。稲が「春の種から夏の苗、秋の収穫を経て冬の貯蔵に至る」様な定まった四時が人に有るわけではない。
(十歳にして死するものは十歳中自ら四時あり、二十は自ら二十の四時あり、、、、十歳をもって短しというは、?蛄を以って霊椿たらしめんと欲するなり。、、)
しかし、十歳にして死ぬ者には、その十年の中に自らの「四季」がある。二十で死ぬ者にはその二十年の中に「四季」がある。、、、十歳をもって短いという者は、一夏しか生きない夏蝉を長く生きる霊木にしよう、とする様に無理なことだ、、、
(義卿三十、四時己に備はる、亦秀で亦実る、其のしいなたると其の栗たると我が知るところに非ず。若し同士の士其の微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ざるなり。同士其れ是れを考思せよ。)
私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なるモミガラなのか、ちゃんとした栗の実であるのかは私にはわからない。しかし、もし同士諸君の中に、私のささやかな真心を憐み、それを受け継いでやろうという人がいるならば、それはまかれた種子が毎年繰り返し実っていくのと同じで、(私という実が)栗の実として収穫があったことになろう。
同士よ、このことを良く考えて欲しい。
強烈な 檄文
実に強烈な「檄」ではないか。
前の方では、「人生がいつ終わるかはわからない」「しかしたとえ10歳で死すとも、その10年の人生には四季があり、それなりに完結している。」と独特の死生観を語っているが、
最後には、「私も同じだ。まだ三十歳だが既に花をつけ、実も実らせた。ただその実が本物の実として次々と実るかどうかは、諸君が私の志を受け継いでくれるかどうか、次第だ!」と強烈に煽っている。
現代風に言えば、「希代のアジテーター吉田松陰」の面目躍如たるものがある。
キリストと吉田松陰
時代もジャンルもまるで異なるが、この2人に共通点が一つある、と思う。
それは、自らの死をもって自らの思想を強烈に推進したことである。
キリストが磔になっていなければ、キリスト教は今日の様に普及していなかったと思うし、松蔭も自らが幕府に殺されることによって、長州藩の志士達を奮起させようとしたのではないか、と思われる節も多々ある。
もう一つの辞世の句
こちらは漢詩。処刑場に引き出されるときに大声で叫んだという。
吾今為国死 吾、今、国の為に死す
死不負君親 死して君親にそむかず
悠悠天地事 悠々たり天地のこと
鑑照在明神 鑑照明神に在り
私はこれから国のために死ぬが、主君や両親に対して恥ずべきことは何もない。
今となっては全ての事を悠々とした気持ちで受け入れている。
私の忠誠の心は神がご存じです。
感想
吉田松陰の遺書と聞いていたので、松陰の死生観が書かれているのかと思って読み始めた。
16章全部読んだ。一部は、誰々の話に感動したとか、近くの牢に居ながら言葉を交わすチャンスのなかった「橋本左内」に会いたかった、等と書かれているが、それ以外は業務連絡に近い。
有名な第8章の「若くして死ぬ人にも四季がある」は、「四季があったと思いたい」という願望だろう。
松陰自身も三十で「自ら死にたい」とは思っていなかったであろうが、「死罪」になってもそれはそれで良い。「自分が殺されれば、それを契機に門下生が決起してくれるだろう」位の気持ちはあったと思う。自分の身を投げ出してでも自分の思想の実現を願っていたのだと思う。
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